イエローノート

日々学び、日々遊び、日々挑み、日々成長。自分の学びの備忘録。

【備忘録】2020年の振り返り~新しく始めたこと③

今回も前回からの続きです。2020年に新しく始めたことについて振り返ります。

 

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新しくはじめたコト③~お金系

【キャッシュレス化】

これはほぼ完成しました。地元商店街(現金決済のみ)での買い物以外、現金を使うことはなくなりました。ポイントがどんどん貯まるようになり、財布もコンパクト化でき、良いことずくめです。何より良かったのは、自分自身をキャッシュレス化することに伴って、お金に対する感覚がシビアになってきたことです(なぜそうなったのかはよくわかりません)。お金を使うとき、投資と消費と浪費の違いをすごく意識するようになりました。

 

【NISA枠投資】

人生設計の一部として投資経験は必須だろうと始めました。毎月1万円の少額積立投資ですが、投資手法の鉄板である「ドルコスト平均法」の実体験として、定期的にウォッチしていきたいと思っています。


以上が「2020年に新しく始めたこと」です。こうして振り返ってみると、2020年は「自分の人生をどう生きるか」が大きなテーマだった気がします。この背景にあるのはやはり「コロナ」。世の中の仕組みや考え方が大きく変化していく中で、自分自身も変わっていかなければ生きていけない、ということを強烈に意識した年になりました。

 

【備忘録】2020年の振り返り~新しく始めたこと②

今回は前回の続きです。 2020年に新しく始めたことについて振り返ります。

 

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新しく始めたこと②~趣味系

【プログラミング】

これは興味本位(単なる思いつき)で9月頃に始めました。やってみるととても面白い! 普段パソコンやスマホで目にする画面を、自分の手で、自由に創ることができるということに非常に興奮しました。まだまだテキスト通りに創るだけで、オリジナルを作成するには至っていませんが、挑戦していきたいと思っています。

 

【散歩】

これはまさにコロナきっかけで始まりました。コロナがなければ始めなかったと思います。近所に全国的に有名なスポットがあることも幸いでした。ただ歩くだけですが、やってみると予想外の爽快感! さらに「普段考えないことを考える(思いつく)時間にもなる」という想定外の副産物もありました。これは続けて行きたいと思っています。

 

(次回へつづく)

 

【備忘録】2020年の振り返り~新しく始めたこと①

2020年は自分にとって大きな変化があった年になりました。当然コロナの影響もあるのですが、コロナのせいで変えられたのではなく、自分の意志で変えた部分が大きかったと思っています。その結果大きな学びを得ることができました。

自分の備忘録として、2020年の変化について記録しておきたいと思います。
(書き始めたら結構なボリュームになったので、3回に分けて記録します)

 

新しく始めたこと① ~自己啓発

はてなブログ

これは5月のゴールデンウィーク中に始めました。2019年後半からメルカリでの小遣い稼ぎを(自分的には)本格化させましたが、小遣い稼ぎができるツールをもう一本欲しいと考え始め「とりあえずやってみよう」と選んだのがブログでした。もともと文章を書いて発信することに憧れていたところがあったので、自分としては自然な選択でした。とりあえず1年程度は収益化は考えずに、発信の訓練として力まずにやってみようと思っていましたが、やってみてわかったのは「アウトプットの難しさ」。小難しい主張などをする気はさらさらなく、思いついたテーマについて気楽に発信するつもりだったのですが、いざ書き始めると全然書けない(ネタはそこそこ思いつくのに)。当初は週2~3本発信するイメージでしたが、現実は月2~3本程度。大いに反省です。

 

【学習系動画や音声配信アプリ「Voicy」の視聴】

動画は9月頃、「Voicy」は11月頃から始めました。これがとても気に入っています。自分の生き方や考え方を整理するうえで大きな刺激を受けています。きっかけはある仕事に関して知識不足・勉強不足を痛感したことでした。勉強不足をカバーするために自宅で動画視聴を始めたのですが、自宅では十分な時間を確保するのが難しい。その対策としてやったことが、スマホ契約を「通信無制限」に変えることでした。多少の出費増にはなりましたが、自分への投資と割り切りました。これが大成功。動画を視聴するのに場所を選ばなくなり、インプットの量が飛躍的に増えました。それまでのインプットの手段は書籍が大半でしたが、動画によるインプットは(内容は同じでも)理解の質が全く違うと感じています。動画のほうがより直感的に理解できる感じがします。音声によるインプットも同様です。日々大きな刺激を受けています。

 

(次回につづく)

 

【備忘録】コンプライアンスとは何か?


最近コンプライアンスに関する学習動画を見たのですが、その中ではっとさせられる言葉に出会いました。

 コンプライアンスの本質は「プライド」である。

 この言葉を聞いた時、私は深くうなずいてしまいました。

 

コンプライアンス」という言葉を日本語に直す場合「法令遵守」という言葉を使うことが一般的です。意味するところは、法令だけではなく倫理や社会規範なども含めた広い意味での社会のルールを守ることだと言えると思います。

コンプライアンスという言葉が一般的になったのは2000年代からだと思いますが、いろいろな事件や不祥事が発覚するたびに「コンプライアンス」という言葉が社会的に注目されるようになりました。それによってあらゆる分野でコンプライアンス重視の姿勢が強調されるようになったと感じています。個人的にはこのコンプライアンスという言葉が日本全体の生産性向上を阻み、国力低下を招いた大きな要因ではないかと考えています。具体的に言えば、日々のあらゆる行動が「ルールから逸脱していないか」という目線で監視されるため、各個人・各企業が委縮してしまい、「ルールの範囲内で行動する」「ルールに書かれていないことはしない」という行動様式(=思考停止状態)になってしまったということです。なぜこうなってしまったのか? 多くの日本企業が社会的な要請であるコンプライアンスを「ルールから逸脱しないこと」と捉え、ルールを守ること自体を目的化してしまったからだと思います。このような環境からAmazonGoogleのような企業が生まれてくるはずがありません。

ではコンプライアンスの本質的な目的とは何か? コンプライアンスを手段として何を目指すのか? 私の解釈では「社会に対して恥ずかしくない行動を常態化し、公平で活力のある社会を創ること」だと考えます。決して「ルールを守ること」ではありません。自分の頭で考え、誰に対しても恥ずかしくない行動をしていれば、自然にコンプライアンスは達成されます。そしてその行動の根源となるのが「プライド」です。プライドは自分の知識や経験に基づいて、自分の頭で考え、体得・体現するものです。他人から教わったり、与えられたりするものではありません。「自分のプライドに基づいて、正しい行動をする」。これがコンプライアンスの真髄ではないでしょうか。

冒頭に紹介した「コンプライアンスの本質はプライドである」という言葉は、聞いた瞬間に私の頭にズドンと響きました。何度も反芻しました。コンプライアンスはとても重要なもののはずなのに、私のなかでは「つまらないもの」「面倒なもの」というイメージしかありませんでした。しかしこの言葉を聞いて自分の中にあったモヤモヤが晴れた気がしたのです。自分の生きる指針のひとつとして大切にしていきたい言葉になりました。

【読書録】『それ、なんで流行ってるの? 隠れたニーズを見つけるインサイト思考』原田曜平著


新しい言葉を学びました。

 

インサイト

 

広告業界では最も重要な概念だそうです。この言葉の意味するところは「人を消費行動に駆り立てる最も大切な要素」であり、広告の仕事は「本人も気づいていない、潜在的なニーズ=インサイト」を探り当て、それを消費者に知らしめること。平たく言えば「そう、それ! そういうのが欲しかったんだよ!」とターゲットに気づかせること。これが広告の仕事だそうです。

 

本当のニーズを探ることは難しいですが、すごく面白いと思いました。

例えば人が「私はスタバが好きです」というとき、その人が本当に好きなのは「コーヒーの味」なのか、「お店の雰囲気」なのか、それとも「おしゃれで少し高級感のあるスタバに通う『自分』」なのか。

例えば人が「インスタにハマっている」というとき、本当にハマっているのは「きれいな写真をとること」なのか、「写真を通じて仲間とコミュニケーションすること」なのか、それとも「インスタ映えするモノや場所をたくさん知っている自分を『アピール』すること」なのか。

 

私もネット上で発信することを始めました。「読者のインサイトを探ること」を肝に銘じたいと思います。過激なタイトルや写真でページビューを稼ぐことはできても、継続的なフォロワーを獲得することはできません。私が発信する目的は「自分の頭で考えたことを整理し、伝わる文章を書くこと」であり、「フォロワーを獲得すること」ではありませんが、ある程度フォロワー(ページビュー)がつかないとモチベーションが続かないのも事実。伝わる文章を書くため、世の中の人たちのインサイトを探り、読者にとって新しい気づきが得られるような文章を書けるように修行します。

 

【愚考録】「政府はすべてわかっている」仮説

 

「マスク会食」

このたび、政府から恐ろしいコロナ対策案が打ち出されました。これを見た瞬間の私の率直な感想は「アホちゃう!?」。 同じ感想を抱いた方も多いらしく、私が目にする範囲のSNSでも否定的なコメントが多いようです。なぜ政府はこんな奇想天外な対策を大真面目に喧伝するのか? しかも首相みずから・・・。

 

どうしてだろうと考えていてふと気づいたのが「政府はすべてをわかったうえで、あえてやっているのではないか」ということです。どういうことかというと、この対策の不合理性を理解できる国民は実はごく少数しかおらず、これぐらい具体的に、個別的に、明示的に指示しないと大多数の国民は対策の必要性を理解できない、と政府が考えているのではないかということです。実はいつの間にか日本人の「考える力」や「理解力」が猛烈に劣化しているのだとしたら・・・。 想像以上に「指示待ち型」の人間は増えているのだとしたら・・・。

 

そんなことを妄想して、少し背筋が寒くなった今日この頃です。

 

【読書録】「教養としての世界宗教史」島田裕巳著

 

最後の最後で衝撃を受けました。


本書の内容

本書はキリスト教イスラム教、仏教など、世界の主な宗教の成り立ちや教義・世界観などについての解説書。私は「なぜ宗教は存在するのか」という点に関心があるのですが、宗教の教科書的な本はまだ読んでいなかったことに気づき、本書を手にとりました。本文の内容は(私にとっては)特に目新しいものではありませんでしたが、「ふんふん、なるほど」と楽しく読ませていただきました。

私が衝撃を受けたのは最終章「終わりに」でした。筆者によれば、先進国では宗教は衰退・消滅しつつあるそうです。そして「宗教の消滅は、道徳や倫理の消滅に結びつく可能性がある」という指摘があり、私はそのことにドキッとしたのです。


■宗教が生まれた背景

先進国で宗教が衰退しているというのはその通りかもしれません。私の理解では、宗教が生まれる背景には飢えや貧困、病気、天災、強大な暴力など、自力では解決できない「生きる苦しみ」が必ず存在しました。これらの「生きる苦しみ」を不本意ながら受け入れ、「正しい行いをしていれば、いつかは(来世では)報われる」という生きる希望を与えてきたのが宗教だと考えています。また、ほとんどの宗教では「すべきこと」や「すべきでないこと」が定められており、それが社会の規律となり、コミュニティ内の道徳や倫理と強く結びついてきたのだと思います。

地球規模で見た場合「生きる苦しみ」を抱えている人のほうがまだまだ多いと思います。しかし先進国だけでみれば飢えや貧困に苦しむ人は減っています。病気になれば薬や病院があり、天災もある程度は事前に備えることができ、理不尽な暴力は警察等によって抑えることができるようになっています。このような「生きる苦しみ」が少ない状況では宗教は不要でしょう。インターネット普及後は、あらゆる情報・知識・知恵が瞬時に世界中で共有できるようになりました。それによって「生きる苦しみ」を回避する方法も共有できるようになりました。そのため宗教の役割は低下してきているのだと思います。つまり人間は「生きる知恵」を手に入れることによって、宗教に頼る必要がなくなってきているのです。

 

■宗教がなくなるとどうなるか

インターネット以前は情報を伝える手段が限られていました。そのため既に広く社会で共有されている宗教的な道徳感や倫理感が「常識」や「社会基盤」として機能していたというのが私の理解です。しかしインターネット以後は、無数の個人や組織から様々な意見・考え方・価値観が発信され、それが瞬時に世界中で共有されるようになりました。すると同じコミュニティ(国、地域、宗教、世代など)に所属している人同士でも、全く違う考え方をする人が多数いるということが浮き彫りになってきました。そしてどうなったか? 自分が所属するコミュニティで共有されていると信じていた「常識」が通用しなくなり、個人間の摩擦が強くなってきています。これが昨今(特にネット空間で)巻き起こる誹謗中傷の類の正体ではないか、というのが私の仮説です。つまり何かについて論争が巻き起こると「自分の正義」対「他者の正義」の戦いになってしまうということです。宗教が信じられている世界では正義を定義するのは「神」です。しかし宗教が衰退した世界では、100人いれば100通りの正義が存在することになります。「正義vs正義」の戦いですから、お互い一歩も引くことはできません。自分が信じるものを相手が攻撃してくるのですから、負けたら自分の存在意義がなくなってしまいます。この辺は宗教戦争と同じではないでしょうか。だから、ふとしたきっかけで相手に対する攻撃性に歯止めがかからなくなってしまい、誹謗中傷と言われるようなひどい言動にまで行きついてしまうのだと思います。


■まとめ

このような状況はまさに「宗教の消滅は、道徳や倫理の消滅に結びつく可能性がある」と本書が指摘している状況です。宗教に頼ることなく、自分で考え、自分なりの判断軸をもって行動することはとてもよいことだと思いますが、自分の判断軸が「絶対的な正義」ではないという認識を併せて持つことが、「無宗教の時代」を生きていくうえでとても大切だと考えます。