イエローノート

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【読書録】「教養としての世界宗教史」島田裕巳著

 

最後の最後で衝撃を受けました。


本書の内容

本書はキリスト教イスラム教、仏教など、世界の主な宗教の成り立ちや教義・世界観などについての解説書。私は「なぜ宗教は存在するのか」という点に関心があるのですが、宗教の教科書的な本はまだ読んでいなかったことに気づき、本書を手にとりました。本文の内容は(私にとっては)特に目新しいものではありませんでしたが、「ふんふん、なるほど」と楽しく読ませていただきました。

私が衝撃を受けたのは最終章「終わりに」でした。筆者によれば、先進国では宗教は衰退・消滅しつつあるそうです。そして「宗教の消滅は、道徳や倫理の消滅に結びつく可能性がある」という指摘があり、私はそのことにドキッとしたのです。


■宗教が生まれた背景

先進国で宗教が衰退しているというのはその通りかもしれません。私の理解では、宗教が生まれる背景には飢えや貧困、病気、天災、強大な暴力など、自力では解決できない「生きる苦しみ」が必ず存在しました。これらの「生きる苦しみ」を不本意ながら受け入れ、「正しい行いをしていれば、いつかは(来世では)報われる」という生きる希望を与えてきたのが宗教だと考えています。また、ほとんどの宗教では「すべきこと」や「すべきでないこと」が定められており、それが社会の規律となり、コミュニティ内の道徳や倫理と強く結びついてきたのだと思います。

地球規模で見た場合「生きる苦しみ」を抱えている人のほうがまだまだ多いと思います。しかし先進国だけでみれば飢えや貧困に苦しむ人は減っています。病気になれば薬や病院があり、天災もある程度は事前に備えることができ、理不尽な暴力は警察等によって抑えることができるようになっています。このような「生きる苦しみ」が少ない状況では宗教は不要でしょう。インターネット普及後は、あらゆる情報・知識・知恵が瞬時に世界中で共有できるようになりました。それによって「生きる苦しみ」を回避する方法も共有できるようになりました。そのため宗教の役割は低下してきているのだと思います。つまり人間は「生きる知恵」を手に入れることによって、宗教に頼る必要がなくなってきているのです。

 

■宗教がなくなるとどうなるか

インターネット以前は情報を伝える手段が限られていました。そのため既に広く社会で共有されている宗教的な道徳感や倫理感が「常識」や「社会基盤」として機能していたというのが私の理解です。しかしインターネット以後は、無数の個人や組織から様々な意見・考え方・価値観が発信され、それが瞬時に世界中で共有されるようになりました。すると同じコミュニティ(国、地域、宗教、世代など)に所属している人同士でも、全く違う考え方をする人が多数いるということが浮き彫りになってきました。そしてどうなったか? 自分が所属するコミュニティで共有されていると信じていた「常識」が通用しなくなり、個人間の摩擦が強くなってきています。これが昨今(特にネット空間で)巻き起こる誹謗中傷の類の正体ではないか、というのが私の仮説です。つまり何かについて論争が巻き起こると「自分の正義」対「他者の正義」の戦いになってしまうということです。宗教が信じられている世界では正義を定義するのは「神」です。しかし宗教が衰退した世界では、100人いれば100通りの正義が存在することになります。「正義vs正義」の戦いですから、お互い一歩も引くことはできません。自分が信じるものを相手が攻撃してくるのですから、負けたら自分の存在意義がなくなってしまいます。この辺は宗教戦争と同じではないでしょうか。だから、ふとしたきっかけで相手に対する攻撃性に歯止めがかからなくなってしまい、誹謗中傷と言われるようなひどい言動にまで行きついてしまうのだと思います。


■まとめ

このような状況はまさに「宗教の消滅は、道徳や倫理の消滅に結びつく可能性がある」と本書が指摘している状況です。宗教に頼ることなく、自分で考え、自分なりの判断軸をもって行動することはとてもよいことだと思いますが、自分の判断軸が「絶対的な正義」ではないという認識を併せて持つことが、「無宗教の時代」を生きていくうえでとても大切だと考えます。