イエローノート

日々学び、日々遊び、日々挑み、日々成長。自分の学びの備忘録。

【愚考録】メルカリで学んだこと

 

2020年10月現在、メルカリを初めて3年ほど経ちました。取引件数は1000件を超えていて、我ながらよく続いているなと思います。なぜ続けているのか?と聞かれれば「楽しいから」と答えるしかないのですが、メルカリの何が楽しいのか、を考えてみました。


楽しい理由① ~非常に簡単

メルカリを使うのに難しい知識や技術は全くいりません。
出品側では、商品の写真をとり、説明を書き、価格を決め、売れたら包装してコンビニ等に持ち込むだけ。全部自分で自由にできます。購入側では欲しいものを探して、購入ボタンを押すだけ。何も難しいことはありません。


楽しい理由② ~でも商売は難しい

メルカリの醍醐味は出品だと思います。単に売るだけなら非常に簡単。価格を相場より安くすればよいのです。でも(当然ですが)高く売るのは難しい。出品者の腕の見せどころです。高く売るために考えるべき要素はたくさんあります。価格は適切か、写真写りはよいか、説明文はわかりやすいか、適切な検索ワードがちりばめられているか、相場の動きはどうか、出品するタイミングはどうか、値下げすべきか、他商品とまとめ売りすべきか、などなどなど・・・。その前提として、この商品を高く買ってくれる人がどういう人なのか、を具体的に想像する必要があります。たくさんの要素を考慮しながら出品し、こちらの想定通りの価格で売れた時の爽快感。何とも言えない瞬間です。


楽しい理由③ ~人間に関する学びが多い

メルカリには多数の人が参加していますので、いろんな人がいます。丁寧な人/横柄な人、ベテラン/初心者、話がわかる人/わからない人、などなど。総じて思うのは「常識」というのは極めて相対的なものであり、自分の常識と他人の常識は全く違うということです。現実の世界では人は誰しも「他人の目」を気にしながら行動するので「非常識」な行動は目立ちにくいのかもしれません。しかしネット空間では「他人の目」は存在しないので、より「本音」が出やすいのかもしれません。

またメルカリには「メルカリボックス」というユーザー同士で情報交換する場があります。ここではかなりの頻度で「自分の常識」対「他人の常識」の対立が見られます。また「そんなことも知らないの?」「ちょっと調べればわかることなのに・・・」という質問も本当に多く見かけます。「この人はどうやって生活しているのだろう?」と思うこともしばしばあります。

メルカリは、いろいろな考え方があることをしることができる、自分のとって「学び」が多い場です。


■まとめ

「ちょっとした小遣い稼ぎ」のために始めたメルカリですが、いまでは自分にとっては重要な「学びの場」になっています(もちろんお小遣いも大切ですが)。思わぬ副産物をもたらしてくれているメルカリに感謝・感謝です。

【読書録】『異端の進め』橋本徹著

 

橋本徹氏。
弁護士、タレント、大阪府知事大阪市長日本維新の会代表を歴任。
現在はTV出演、講演、執筆など多方面で活動中。

 

本書で橋本氏は強みを武器にする生き方を説いています。いくつかの言葉が自分に刺さりました。『自分軸にこだわるな』『自分の商品価値を高めよ』『質より量』『持論工場をつくれ』など。私なりに解釈するとこうなります。

 

人間の成長にとって大事なのは、自分で自分の守備範囲を固定せず(選り好みせず)、目の前の仕事に全力を尽くすこと。そうすれば自然に守備範囲が広がり、新たな武器を手に入れて成長することができる。その結果、自分の商品価値が上がり、新たな仕事を得て、さらなる成長の機会を得ることができる。

 

こういうことだと思います。いまの私の大きなテーマである「まずやってみる」の精神に通じるところがあり、大いに共感できる内容でした。

 

新しいことを始めるとき「挑戦する」「チャレンジする」という心構えでいると、何か大きな壁を感じてしまいます。ですので、私は「まずやってみる」と考えるようにしています。何か新しい物事が自分の目の前に現れた時、あまり深く考えずに「まずやってみる」。とりあえずやってみると必ずといっていいほど失敗します。しかしそれはほとんどの場合小さな失敗です。小さな失敗であれば簡単に修復可能です。新しいことを始めるときは、早く着手し、早く小さな失敗を経験し、早く修正する。この繰り返し。これが大きな成功への近道だと思っています。

 

【愚考録】コメントの極意 ~ SNS編

 

【極意】コメントは、短く、優しく、シンプルに

 

『短く』

  ~SNSでは長い「文章」は読まれにくいです。「読ませる」を目的とするなら、
   画面スクロールの必要がないくらいの短い分量のコメントが理想的です。

 

『優しく』

  ~SNS上のコメントは、気を抜くと攻撃的なものになりがちです。
   「正義」や「正しさ」や「常識」などは絶対的・普遍的なものではないという
   ことを理解していないと、「自分の正義」対「相手の正義」の戦いとなり、
   互いに引けなくなるからです。「正しさ」や「常識」は相対的かつ多様なもので
   あることを理解し、知的で優しいコメントをしたいものです。
   非難や罵詈雑言の応酬は見苦しいだけです。

 
『シンプルに』

  ~多くの人の共感を得るにはできるだけ簡単な言葉を使う方がよいでしょう。
   短く簡単な言葉ほど、強いメッセージを広く伝えられます。
   例えば「ONE TEAM」。ラグビー日本代表の活躍で一気に浸透しました。
   シンプルな言葉ほど、その言葉が包含する意味合いが広く深いものになります。

【愚考録】無知はヤバい。本当にヤバい。

これからの世の中「無知では生きていけない」と強烈に思うようになりました。

なぜか? 

世の中の動きがますます速くなり、新しい仕組みやルール・習慣・常識がどんどん生まれているからです。

 

コロナ禍で世の中の「常識」や「考え方」が一気に、急速に変わってきています。この変化についていけない人は「変化のメリット」を享受することができず、「変化のデメリット」ばかりを負わされる羽目になりそうな気がしています。

 

例えば「働き方」。コロナ禍でリモート化が一気に進みました。自分の仕事がリモートでできるかどうかは職種によって当然違いますが、「いま」リモート化できなくても、「ある日」リモート化できる時が来ます(かなり高い確率で)。その「ある日」が来た時、リモート化についての知識や経験が「ちょっとでもある人」と「全くない人(無知な人)」では、仕事人として生き残っていける確率は全く違うと思います。変化に対応できる人は「新しい仕組みや常識」の中で「普通」に仕事ができますが、変化に対応できない人は自分が属する組織やコミュニティの中で「お荷物」になってしまいます。例えば、リモートやオンラインの知識・スキルがない人だけが「わざわざ出勤・出張する」「わざわざ紙資料を印刷して、持ち運ぶ」という状況が容易に想像できます。

 

変化が速い時代です。変化についての知識や経験が「ちょっとでもある人」と「全くない人」では、その後の人生に雲泥の差が生まれると思います。「世の中でどんな変化が起きているか」は常に意識高くウォッチしていかねばなりません。

 

無知では生きていけない。

 

【読書録】「思考中毒になる!」齋藤孝著

最近のマイブームは「考えて、書く」です。このブログもその一環で始めました。始めて3か月程度ですが、自分の生活に張りが出てきたというか、モチベーションアップにつながっているという実感があります。「考えること」「書くこと」が楽しくてワクワク感が止まりません。何なのでしょう、この感覚。

 

そう思っていたところに書店で出会ったのが、本書「思考中毒になる!」です。自分のワクワク感の正体がわかるのではないかと思い、本書を手に取りました。内容は納得感の連続でしたが、特に決定的だったのは「記録するだけで思考や行動の質が上がる」という指摘でした。まさに「我が意を得たり!」でした。

 

書くという行為は、自分の頭の中にあるものをアウトプットする行為であり、自分の思考を見える化するということです。文章として自分の思考を見える化するには論理的に表現する必要があります。この「論理的に表現」というのがポイントです。頭の中だけで考えていると、同じことを何度も考えたり、考えがあちらこちらに飛んでしまったり、堂々めぐりの思考ループに陥ってしまうことがあります。結局たいした結論も出せず、時間だけが進んでしまいます。これを回避する最良の方法が「書く」という行為だと思います。書くことによって自分の思考が整理され、自分の考えや行動の根拠が明確になり、自信が生まれ、無駄が少なくなり、次の行動への移行が早くなる。これが今の自分に起きていることです。これが今のワクワク感やモチベーションアップの正体ではないかと思っています。このブログを書くという行為は、想定外の良い効果を自分にもたらしています。自分の成長のため、しばらく続けていきたいと思っています。

【備忘録】デジタルを学ぶべき理由

今に始まった話ではありませんが、世の中が急速にデジタル化しています。これからはすべての物事がデジタル前提で組み立てられます。デジタル化によってこれまで考えられなかったようなことが実現する一方で、デジタル化による情報漏洩や金融詐欺など様々な事故も起きています。事故はこれからも起きると思いますが、デジタル化の流れは不可逆的なものです。事故が起きるのはデジタル化に限ったことではありません。人間の営みすべてに事故や犯罪がつきものです。これからの時代を快適に生きていくにはデジタルに関するリテラシーを高めておかなければなりません。

デジタル・リテラシーとは?

ではデジタル・リテラシーを高めるとはどういうことでしょうか? カタカナ用語では難しく感じてしまいますが、私の考えはすごく単純で、リテラシーの高い人と低い人の差は「デジタルな機器やサービスを使った経験があるかどうか」だけだと思っています。「PCやスマホタブレットを縦横無尽に使いこなす」とか「自分でプログラムを書いて、アプリサービスを創ることができる」とか、高度のものである必要ないと思っています。もちろんそういったスキルがあればよいのですが、当然ながら全員がそうである必要もないわけです。私が必要と考えるのは、様々なデジタル機器やサービスを使った経験を踏まえて、そのサービスがどのような仕組みで動いていて、自分にとって必要か否かを理解していることだと思います。

最悪なのは「よくわからないし、なんとなく不安だから」という理由で「食わず嫌い」をすることです。人間、未知のものに遭遇すると不安になるのは当然です。しかし一度経験すれば、たいていの場合「なんとなく不安」の部分は解消できるのではないかと思います。その経験を踏まえて「これば便利だからもっと使ってみよう」となるのか、「自分には合わないから使うのをやめよう」となるかは人それぞれでしょう。この経験の積み重ねがリテラシーを高めることにつながります。

まとめ

今後世の中に出てくる商品やサービスはすべてデジタルが前提となります。デジタル化されていないものは「世の中に存在しないもの」と同義といっても過言ではないかもしれません。私は人類の進歩の果実を最も享受できるのは、マーケティング用語でいう「アーリーアダプター」だと思っています。少なくとも「アーリーマジョリティ」でなければ、これからのデジタル世界を生きていけないのではないかと思っています。急速に変化していく世界では、誰もが「なんとなく不安」になるものです。しかし不安だからといって立ち止まっていては何の解決にもなりません。不安だからこそ、学び、行動し、失敗し、さらに学ぶというサイクルを回していくことが大切なのではないでしょうか。これがリテラシーを高めるということだと思います。

【愚考録】政治に期待してはいけないこと

前項では「政治に期待すること」について書きました。それを考える中で「政治に期待してはいけないこと」についても考えたので、記録しておきたいと思います。


政治に期待してはいけないこと ~ 正しさ

政治に期待してはいけないことは「正しさ」だと考えます。なぜか?すべてにおいて正しい人間などいないからです。ごくごく当たり前のことだと思いますが、こと政治関係者(議員、官僚)に関しては国民(特にマスコミ)は【過度な】正しさを求める傾向が強いように感じます。

 

例えば「政治資金」。たった数万円の記載ミスでも発覚すると大騒ぎ。「説明責任!」と騒ぎ立てるマスコミ。「任命責任!」と総理大臣を追及する野党。これ、どうなんでしょうか? 記載ミスは確かに正しいことではありません。政治家の不正蓄財や不正流用を防止するために厳しくチェックすることも必要でしょう。しかし重箱の隅をつつくようなミスに大騒ぎすることで、何が生まれるのでしょうか?

 

例えば「不倫」。既婚者の不倫疑惑が浮上すると「謝罪会見を!」と騒ぎ立てるマスコミ。それに乗って「任命責任だ!」と総理大臣を追及する野党。これもどうなんでしょうか?言うまでもなく、不倫は正しいことではありません。当事者にとっては大変なトラブルであることは間違いありません。しかし当事者以外の人には何の関係もないのではないでしょうか。謝罪会見で「世間の皆様にご迷惑をお掛け致しました」という謝罪のコメントをよくみかけますが、誰が迷惑を被ったのでしょうか。謝罪は誰に対する謝罪なのでしょうか。当事者以外の関係者(所属する政党・団体、支援者、スポンサー等)はそもそも何の迷惑もしていないのに、マスコミが勝手に大騒ぎした結果として、多大な迷惑を被っているのではないでしょうか。不倫疑惑報道にはどんな意義があるのでしょうか?

 

一方、マスコミや野党の立場に立てば、わからなくもない事情があります。マスコミが不正や不倫を報道するのは、それが「売れるニュース」だからです。野党が不正や不倫を追及するのは政策論争で戦うより「簡単」だからです。しかし生産性が高い行為とは言えません。

 

何を期待するか ~ よい仕事

私は政治家や官僚の方たちには「正しい仕事」ではなく「よい仕事」をして欲しいと思っています。私が考える「よい仕事」とは未来が明るくなるような仕事です。何か問題があれば解決し、不具合があれば改善する。「よい」の基準は人それぞれかもしれませんが、それを皆で議論し、より多くの人が希望がもてる仕事。昨日より今日、今日より明日が良い方向に向かっているという前向きな感覚が得られる仕事が「よい仕事」ではないでしょうか。一方「正しい仕事」とはどんな仕事でしょうか? 仕事に正しさを求めると、途端に窮屈でつまらないものになってしまう気がします。正しさを意識すると「正しいことをしよう」というよりも「正しくないことをしないように気を付けよう」という後ろ向きな意識になりがちです(私だけでしょうか?)。世の中にコンプライアンス(法令順守)という言葉が一般化するほど、世の中が窮屈なものになってしまった感があります。私の感覚では「よい」の基準は人それぞれであり「よい仕事」の方向性は無限にあると思います。進むべき方向性が無限にあるので、社会に活力が生まれるのだと思います。一方「正しい」の基準も人によって違いはあると思いますが、それは「世間の常識」の最大公約数的なものであり、「正しい仕事」の範囲は非常に狭いものであるように感じます。窮屈な世界から新しいものや楽しいものは生まれてこないのではないでしょうか。

私は政治には「よい」「大きな」仕事をしてほしいと思っています。正しさを求めて「正しくないこと」の指摘合戦をしていては政治が委縮するだけです。国民にとって利益があるとは思えません。政治は「正しい人間コンテスト」ではありません。国民は政治の「正しさ審査員」ではありません。「よりよい政治」が行われるように、国民は国の構成員として政治に参加するべきだと思います。